辻村史朗
野山を回って好みに合った土を採取してくる。それを木槌ではたいて、ふるいにかけ、水をまぜて粘土を作る。この仕事も、大量に工場で作られている粘土を使えば、何んの造作もないことなのだが、そういう土は、欠点のない使いやすい土です。しかし裏をかえせば、個性のない土ともいえます。
ざらざらの、のびない土
ねばねばで、すぐにへたる土
火に弱すぎる土
火に強すぎる土
それら欠点のある土も、ひとつ見方を変えれば、個性豊かな土ともいえます。と同時に、個性ある陶器も、その土によって出来うるものです。失敗も多いのですが……。
造る時の方法は、いろいろですが、私は今おもに、けりロクロを使用しています。これは、上下に二つの、まあるい盤がついていて下の盤を、足でけりながら、回すものです。速度調節が意のままになり、土との疏通が良いので、好んで使っています。
たださきほども、書きましたように、個性の強い土ゆえ、私の我を押すと、土の意がそこなわれます。しかし我が我が造ろうとするのですから、そのへんの噛み合わせが、なかなかうまくいきません。
人間が無作為の中で、ある形体を造った場合、古代から現代にいたるまで、ある種の共通点が、あるようにおもえます。過去から現代、そして未来へと、人の生き様は、さまざまに変化するでしょうが、その中で変わることのない何か、その何かにかかわりつつ創りつづけていきたいと想うのです。
焼物を始めて、三年になろうとしています。何んの修業もせずに、窯場を見たこともない、そんな自分が、たった一さつの本をたよりに、初めはなかなかうまくいきませんでした。時には、こんなこともありました。
窯の中は、なまやけで外側のテントが燃えてしまったこともあります。さいわい大事には、いたらずにすみました。以後、窯の中より外の方へ、細心の注意をはらっております。それから、こんなこともありました。
テントのかわりにスレートで屋根を作ったまでは、良かったのです。が、四、五日のうちに、何十年に一回という大きな台風があり、屋根は吹きとんでしまい、窯はびしょぬれになってしまいました。しかし、ぬれたままで焼いたところ、思わぬよい結果がでたこともあります。
エピソードをかけば、素人陶芸ゆえ、きりがありません。四、五回の失敗ののち、一、二割がどうやら焼けるように、なりました。
南禅寺や、京都美術館の前、それに大原の田んぼのあぜ道、いたるところに焼物を並べて、テキ屋の兄さん方や、おまわりさんらに心の中で、ちょっとえんりょしながら、ずぶとく商売と云おうか、みせものと云おうか、そんなことを始めたのは、焼物をやりだしてから三カ月目頃のことです。
焼物の世界では、土もみ何年、ロクロ何年とかいって、まず技術をと……。
それは、確かに大事なことと思います。しかし、私の中で重きをしめるのは、陶芸そのものというよりも、何かから発するものであって、それがたまたま、土いじりということに出くわしたにすぎないのです。
まったく自分のすきかってなことをやるのですから、焼物の世界での師弟関係など、なりたとうはずもないし、また人に教わる技術を、必要ともしなかったのです。
自分が、その漠然とした何かを、気にしだしたのは、高校の終りごろ絵かきになろうと思ったこのころのことです。
がむしゃらに絵をかきつつも、何か自己の中から、そんな自己を追求する気持が、つのってきて、ついには絵の方をおいておいて、禅門をたたくにいたったのです。頭をそり、衣をまとい、一切を禅中心とした小僧生活へと入っていったのです。
四時半起床、座禅、お経を読み、作務(そうじ、その他一切の雑用)そんな生活の何カ月間が、すぎました。が、それにもあきたらなくなり、今度は、行脚修行にださせてもらいました。
それは、自分自身の葬式代だけを懐におさめ、お寺にとめてもらったり、時には野宿をしたり、山に少しの食料をもって、何日間か座禅をくんだこともあります。しかしそれらの行も、絵をかくうえでは、自分自身のにげ道、逃げていることでしかないと、おもい、二年たらずで小僧生活に終止符をうちました。
それでもなお、人間の内なるものから発する何かと、ものを造ることから生じる何か、この二つの何かが自分の生きるうえでの根本になっているのです。その根本にもとづいて、一年半ほど前、奈良市の東のはずれ、水間と云うところに、千坪あまりの山林をわけてもらいました。
小雪のちらつくころ、山の下刈りを始め、道を作り、地ならしをして、そこにまず十坪ほどの小屋を、つくることにしました。
材料は古い材木や、かわらを集めて、大工、左官、屋根屋、それらすべてのことを二、三人の友だちに手つだってもらったりしながら、本職の人たちの手はかりずに、どうやらできあがりました。
それら小屋を造ることも、絵を描くことも、焼物をすることも、売りにゆくことも、自分にとっては同じ一つのことなのです。
これからも、内なる禅と、もの造りから発する何かを探しつづけてゆきたいと、想うのです。
ここまで書いてきて、重大なことに気がつきました。というのは、かんじんの焼物屋にとって、もっとも重大な焼くということを、いまだに書いておらなかったということです。
窯の種類にも、いろいろとありますが、大別すると直焔式と倒熔式にわかれます。
倒焔式というのは、炎が窯の中で回って出るようになっていて、この場合は、窯内の温度が均一になりやすいので、安定した品物がとれます。現在では、焼き屋のほとんどが、この種の窯を使っているようです。
一昨年の秋に私が作った窯は、直焔式の方で実に単純なものです。板かまぼこを三十度ぐらいの傾斜地においたような型で、下から火をたいて、上から煙をぬくものです。
したがって炎の通らぬ部分(窯の両端や、窯床近くなど)は、なまやけになったり、きわめてロスの多い窯ではありますが、なかなかおもしろいものが二、三取れるのです。
昔の須恵器などは、この種の窯で焼かれたものらしいのです。ほぼ五世紀ごろには、大陸から朝鮮を経て、穴窯あるいは半地上窯と言われる直焔式の最初の窯の造り方が日本にも伝わり、須恵器が焼かれたわけです。
今までの縄文式土器、弥生式土器などにくらべ、はるかに固く焼きしまった器が、どんどん造りだされ、一部完全な姿で今もなお、私たちの身近に見ることができます。
炎による洗礼を受けて、窯から出てくる器は、偶然性を予期しつつも、なおかつ予期しえない部分……それは、人間が運命すらをも変え、あらゆる障害をのりこえたとしても、なおかつ関知しえない大河の運命の内で動いてゆく人間の生ざまと共通したもののようにおもえてならないのです。
* * *
「いったいあなたは、どんな器を作ってみたいのですか?」「何を目標に、作っているのですか?」と、よく問われるのですが、そう問われることに対して私は、相手がうなずいてわかっていただけるような答を、かえせたことがないのです。
前にも書きましたように、土に関することや、窯たきに関することなどは、自分自身に似合った方法として好きなようにのべることも出来たのですが、さて何を求めて毎日土をこね灰をふるい、木を割っているのか、なぜ、どうして、私にとって、言葉や、文章で表現することは、茶盌を作るよりはるかにむずかしいことに思えるのです。
焼物を作りつづけている人々の中にも、数えきれぬほど様々の想いがあることでしょう。人によっては、過去の陶工が残した名品の中で、特に自分の心ひかれた物に近づこうと努力している場合もあるでしょう。
あるいは幼いころ話してもらったことがある陶工柿右衛門のように、自然の色調の美しさにひかれ、夕日にはえる柿の色を作りだそうと、一生をかけるということもあったのでしょう。
無限の大気をおもわせる青磁に心ひかれる人、天目釉を目ざす人、心にひそむフォルムを土くれで表わそうとしている人々、陶芸の世界を見回すだけでも人間社会の縮図のようであり、それぞれが独自な歩調で進んでいるのです。
私は、一昨年東京にある日本民藝館(柳宗悦氏を中心にした民芸運動によって集められた、数々の民芸品を展示している館)にて、多くの陳列品の中に、ひとつの大井戸茶盌を見い出した時、これだナというような心にしみこむ大らかさ、何もかも善も悪もつつみこむ、それでいて気負いのない姿、うれしくなって長いことみとれてしまいました。
あれから二、三度、朝鮮の茶盌を手にとって見せていただける機会にめぐまれました。しかしいずれも高価なものに違いありませんが、民藝館の大井戸茶盌に感じたうれしさなど、一向にわかず、その場限りですーっとわすれてしまうようなものばかりでした。
かといって、その私が心ひかれた大井戸茶盌とは、どんな形で、どんな色であったのかなど問われたところで何一つおぼえているわけでもないのです。
その茶盌には、箱書きもなく、名さえつけられてはおらず、単に大井戸とのみ書かれただけで、館の二階の一室に他の陳列品と共に、ガラスケースにおさまっていました。
階下にも古布、家具、陶器の類がぎっしりと並んでいましたが、その大井戸を見つけたら、とんとそれ以外の陳列品のことなどわすれて、立ちどまってしまいました。
今になって考えてみると、なんて気持の安らぐ茶盌だろうか、ともかく自分が大井戸を見た時に感じたことしか、おぼえていないのです。
それはむしろ、茶盌というより、人間と相対しているような状態、大母性大慈悲心と向い合っているようなこころもちになったとしか表現できませんが、器が器の形をはるかに越え、色調を越え、ガラス戸越しにもなお対者である私を、つつみこんでくる。
そのことにおどろきもし、忘れがたい印象をきざみこんで帰ってきたのです。
人の手で作られたものが、作った人の手をはなれ、考えもおよばぬほど時代を越え、場所を越えて、ひたすら人間の内なるところを流れつづける何物か、時代をとわず変わることのないその内なる流れを、そっくり一つの器に含みこんで表現し得るということに、おのずと、私がいったい何をどうしようとしているのか、なぜこのように生きているのか、という質問の答を見い出せるようにおもうのです。
人が人として地球上に生まれてのち、いく千年も無意識の領域において人の心をはぐくんできた変わることのないこの流れに目を向けながら、この先も手さぐりで自分なりに進むしかないのです。
意識をぬけえたところにある、あの大井戸茶盌が表現しえた大母性大慈悲心、善悪すべてつつみこんでなお静かなるもの、そういう状態が、私の手仕事である土いじりの中でも表わしえたらと、つまりは何を作りたいのかといえばこの心の状態以外にありえないようにおもうのです。
だからといって、あの大井戸の形だけをまねても、何もならぬし、それを見たときに心に生じたことと、ずーっと以前からもやもやと自分の内側にひそんでいてそれを見たことにより、ぐいと強くひきだされたものを土いじりの中で明らかにしていくしかないのです。
どうも明解な答にはならぬようですが、ある作品がすばらしかったからその作品に近づきたいというような具体的な方向は、何一つ私にはないわけです。
この日本で育ち、この地面に身をおき生きていくこと、それがすなわちたった一つの変えようのない方向であり、大河の運命の流れであるとすれば、さらにその中心を通る一すじの流れに目をこらし、耳をすましていく。
過去に生きた人々も、その流れを私に伝え、そしてまた未来へと、たえることのない連続運動なのです。
人間が造りだしたものの中には、過去を土台にして、さらに前進してゆく科学のような分野もあります。
電気が発明されると、さらにはあらゆる数の電化製品が作りだされ、さらには予想すらできぬ発展ぶりです。土台はずんずん積み重ねられてゆくのです。
ところが、人の手仕事は科学のようには、いかないのです。人の心の表現方法は、常にゼロから出発していくしかないもののように、おもいます。
材料などに関していうならば、いろいろと開発もされ、たとえば絵画の世界では、絵の具、キャンバスと多種多様の材料が売られています。陶芸の方面でも、電気の利用、ガス、重油、釉薬などと、つい最近までにはおもいもよらなかった材料が手にはいり利用できるのです。
しかしあくまで、白いキャンバスに絵を描くのは、自分であり、土くれを器にするのも自分でしかないのです。作りだす作業はいつの時代もゼロからなのです。土くれを茶盌にしたり、壺にしたり、単なる土くれは、古代も現代も土くれでしかないそれを人はいじりながら、あらゆる形体が生みだされ、こわされ続けてきたのです。
そこでは科学のように、過去の足跡を土台にして、確実に一歩前へとすすむ方法などなりたちえないのです。
たまには、何代にもわたって一つの彫刻を完成したり、何代にもわたって守られつづけている工芸界もあります。
しかし伝統工芸でさえも、守られつづけているのは方法などであり、作る作業はあくまでゼロからといえましょう。
人間が意識の衣をはぎとった状態での手仕事に関わっている時、古代の心も、現代の心も一直線に結びつけられるとおもうのです。
雨にぬれ、風の音を聞き、年月はつぎつぎに多くの人間をのみこみ、人の心さえ、その衣の下におしかくしてしまったかにおもえることもあります。
過去には限りなく澄みわたっていたはずの空をよごし、大病をなおす医学があると思えば、病をつくる科学も同時に在り、その複雑で目まぐるしい中で、ともすればわすれ去られそうな、あまりに漠としたことを、とりとめもなく書いてしまいました。
なぜ器を作っているのか、はたしておもっていることのいくらかでもかきえたのだろうか、はなはだ疑問になります。言葉で表わすことはむずかしく限りがあるようにおもえてなりません。
ゼロから出発しだした土いじりが、どこまで自分の内を自在にかけまわり、広がり得るのか、構えることなく生きていきたいものです。