- 史朗の資料
壺屋のひとりごと

辻村史朗君とのこと
−近藤金吾 著「壺屋のひとりごと」より
あれは観音院・上司海雲師が名古屋で展覧会をなさった後でした。恐らく昭和四十九年頃だったと思います。晩秋のある日、海雲師から、面白い陶工を見付けたので一度、勅使河原蒼風家元と一緒に遊びがてら出てこないかと言う誘いの知らせがありました。丁度家元が入洛中でしたので、ご一緒に観音院を訪れたのです。この時、海雲師が曰く「面白い陶工」こそ、今考えると辻村史期君であったようです。
観音院へ伺うと早速にお茶が運ばれて来ました。その茶碗のなんとデンコツなこと。思わず蒼風家元と顔を見合わせてしまったのです。海雲師は、私の心の中を見透すように笑われ「近藤、その茶碗
どうや。面白いやろう」「管長ー海雲師はこの頃、華厳宗管長並びに二〇六世東大寺別当にご就任になっておられましたーこれは茶碗と違うて井鉢でっせ」「いや、そこが面白いのや。茶碗だけやない、人間がまた面白い」と、さも楽しそうにおっしゃったのです。そして「どうや、これから皆でこの陶工の所へ行かないか」「管長、一体何処に住んでますねん」「ここから車で三十分余りの山の中に住んどる」「管長は面白いか知りませんが、こんな井鉢みたいな茶碗、あきまへんで」。
傍らで蒼風家元がその遣り取りを、茶を飲みながら愉快げに聞いておられました。勿論その時はまだこれが辻村君の作品であることなど知りませんでした。そして何時しかその茶碗のことも忘れてしまったのです。
それから二、三年経って、大阪三越の山口美術部長から電話があり「面白い陶工の展覧会をやっています。茶碗や壺なども作っていますので一度見てやって下さい」という依頼がありました。山口部長には常日頃大変お世話になっていますので、早速大阪三越へ出向き、会場で作品を見ました。ところが今日と違い、当時はまだ駆け出しの頃ですから作品も出来、不出来が極端で、いまいちの感がありました。本人に会ったのもこの時が初めてだったのです。作品はともかく、人間は仲々良さそうに思えたので「まあその内、良い作品が出来たら考えましょう。窯が上ったら見せて下さい」といって、その日は別れたのです。
彼は熱心でした。その後、窯が上がる度に作品を携え店に来ていました。そうしたある日、たまたま荒川豊蔵先生がご来店になったのです。丁度良い機会だと思い「荒川先生、彼は奈良の陶工で辻村史朗といいます。作品を持って来ていますので先生も一緒に見てやっていただけませんか」と、お尋ねしますと、荒川先生は快く引き受けて下さったのです。
二階の床の間に六点ばかりの作品が並びました。荒川先生はそれらの作品をジーとご覧になり「近藤、これは中々面白いぞ」とおっしゃったのです。私は「先生、一体どこがおもしろいのです」と尋ねますと「近藤、これは写しものではなく自分自身のものを作っている。上手下手の問題ではない。
今後、彼がお茶に使えるもの、あるいはお茶の席に入るものをどんどん作り、その中から良いものを選びだしたら、必ずものになるだろうし、我々と少しも変わらん陶芸家になるだろう。なぜなら、先にも話したように、この男は自分の感性で自身の作品を作っている。真似ごとをしているのではない」。そして「わしがこの花入を一点買ってやろう」と。私は驚きました。人間国宝の荒川先生が買おうとおっしゃるのです。「ああ、これは本物だな」と思いました。
ところがです。辻村君は「私はこの作品を売りに来たのではありません。買っていただかなくて結構です」と答えたのです。これにはさすがの私も二度ビックリです。天下の陶工が無名の新人の作品を買うというのに対し「買っていただかなくて結構です」と答えた辻村君は実にご立派。私はこの態度にすっかり惚れこんだのでした。この男なら将来必ずものになると確言しました。
昭和五十六年の晩秋の頃だったと思います。展覧会の要件で入洛された三越本店美術部の渡辺浩男課長と信楽に向けて車を走らせていました。晩秋の信楽道には芒が穂をなびかせ、山々は紅葉に燃え、渓流の水はその色を映して紅に染っていました。信楽への道すがら、私は渡辺課長に辻村君の話しをしたのです。渡辺課長も、近藤さんがそれ程力を入れるのなら本物だと思います。しかし、店で展覧会をやるためには、私も一度会って作品を見ておきたいですね。とのことでした。それでは信楽での仕事を出来るだけ早く切りあげ、この足で彼の所へ行きましょう、と言うことになりました。
彼の家に行くのは私も初めてでした。一度行ってみたいとは思っていましたが、その機会がないまま今日に至っていたのです。早速信楽から電話をかけ、場所を尋ねました。奈良市北東部の山間、名阪国道の針インターに近い水間という所だそうです。あちこちで尋ね、最後には途中まで本人に迎えに来てもらい、やっと到着した彼の家は、赤松と雑木の大自然に囲まれた山腹にありました。
熊笹が一面に生い茂り、そこここに作品が所狭しとばかり転がっています。その数何万点。ここの住人が如何に作陶に励み、努力を積み重ねて来たかがうかがえます。
家内に一歩踏み込むと、そこは黒光りする板張の居間になっており、土間の近くには囲炉裏が切られ、炭が赤々と燃え、鉄瓶の湯が心良い音をたてていました。居間の中程に焼けぼっ杭の太い梁が柱として四本立ち、一目でこの家が素人によって建てられたことを示していました。
それは単に素朴さを通り越し、この家の主が脱世間を象徴する隠棲者かあるいは求道者ではないかと感じさせます。渡辺課長もさすがに驚き「近藤さん、これはまさにほんまものですね」と囁きました。渡辺課長と共に山を歩き無数に転がる作品を見て回りましたが、中々面白く満足できるものがありました。特に井戸茶碗は彼が絵筆ー 元もと彼は洋画家を志していましたー を捨てて挑戦しただけあって、独特の景色を呈し、指導次第では将来話題に上るべき作家になると思ったのです。
展覧会を開くについての種々の打ち合わせを済ませた後、食事になりました。周囲の山で採れた山菜を奥さんが手際よく料理し、出してくれたのです。その料理の実に美味いこと。料理を口にしながら彼の履歴を聞きました。その話は、私たちには大変な苦労話に思えたのですが、本人たちにはさほど苦労ではなかったようです。というのも、恐らくこの奥さんの底抜けの明るさと作陶に対する理解があっての結果であろうと思いました。
昭和五十八年一月十一日、三越本店六階工芸サロンにおいて辻村史朗最初の作陶展の幕が切って落されたのです。展覧会に先立ち、私は光琳社に依頼し、最初の個展としては贅沢すぎる程の図録をこしらえさせました。また、当日代表的な彼の大壺や花器に花を活け会場の雰囲気作りを試みました。
こうした試みが彼の努力作とあいまって相乗効果を生んだのでしょうか、展覧会は大成功でありました。
辻村君は、この展覧会の図録の冒頭に次のように書いております。
「十何年か前、私は絵を描くために、いろんなことを試みていました。自分をどうにかせねばと禅門を叩いたこともありました。しかし、ものづくりはものづくりの中でしか、もがけないと…..。そんな時、井戸茶碗に出会ったのです。やきものが、絵画や彫刻と同等の比重をもっていることを….。
それ依頼、茶碗にどっぷりとつかりこんでいます。若僧が茶碗なんぞと言う言葉をしりめに、何万個という数を造り続けています。いつか井戸茶碗をふっきれる日まで….。」
彼の生き様であり、決意なのです。
以来、七年余り、彼は益々技を磨きより良い作品を造り続けています。
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近藤金吾 著 「壺屋のひとりごと」より -

近藤金吾 著 「壺屋のひとりごと」より
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